川路聖謨
川路聖謨年譜 寧府紀事 島根のすさみ 寧樂百首 植櫻楓之碑



武道関係抜粋集

佐渡奉行在勤日記  川 路 聖 謨

編集 一箭  順 三


天保十一年七月十一日 

 天保十一年六月八日佐渡奉行の命被(かぶ)り、七月十一日被国へまかるとて、板橋(いたばし)の駅まで送別として参りつどいしはらから・友どちに、酒給うべさせなどして、袂(たもと)を分かちける。・・・

天保十一年七月十六日 晴

 旅宿狭くして武芸はならねど、経書(けいしょ)[四書五経、大学・中庸・論語・孟子、易経・詩経・書経・春秋・礼記]または通鑑(つがん)[司馬光撰、資治(しじ)通鑑]を読み、あるいは佐渡風土のこと記せし巻など取出して、日長くおもいしこともなし。

天保十一年七月十七日 晴

 ・・・我思うに壱人の人を遣うにも、こころやすく動くこと難し。然るに此数ヵ村数百人の民、定めて数日こころを労し、力をつくせしことなるべしとおもえば、公のおおん恵み、いとかしこし。されど、夫(それ)は夫丈(それだけ)の身分ともなりたれば也。然れども、身分而(のみ)巳数百人の労苦をほしいままに受けながら、民の心をしらず、民を恵むにこころを用いざらんには、この民の辛苦、終にはわが身より子孫迄をもくるしむる種となりて、父祖の陰徳も、これがために消滅すべし。恐るべきことならずや。
 大徳は必ず百世祀(まつ)らる、ということ、左(さし)氏[春秋左氏伝]にみゆ。其ことまことならんには不徳にして、かく民を辛苦せしむ、必ずや世を永くすること難からめ。七年の艾(よもぎ)に三年の病[一般には、七年の病に三年の艾]というごとく、七分の徳に三分の幸を受けなんには子孫さかえ申すべきを、家の幸か不幸か、某(それがし)がごとく不徳にしてかかることに逢う。必ずや子々孫々の幸を某が代に奪うにやあるらめとおもえば、只々(ただただ)おそれおもう計(ばかり)にぞありき。

天保十一年七月二十四日 快晴

 ・・・相川という所は、赤泊より五十町一里、七里にして、後(うしろ)ロは山、前は大海也。人別一万余という。道狭くして、家づくりみ苦し。相川の入口に、惣門ありて、門番所あり。其内、町也。町の中より、至てけわしき坂登り候得ば、かなりの橋所々に懸り、惣構(そうがまえ)の内に地役人(じやくにん)住居也。奉行屋敷は、別段惣門あり。其惣門の内迄、鑓にて乗輿也。当番奉行の住居は、交替以前明置き、八右衛門[鳥居八右衛門正房]は非番の住居に移り居ぬ。八右衛門が玄関の前、三尺計手前より下乗いたし、八右衛門次の間迄出迎いたす。居間へ参り面 、到着の義申述る。即ち退散の積りなりしが、八右衛門が三年来ここに居て労し候而巳ならず、少しく中風の症も出、且十一日頃より中暑にて打臥す。きょうは某が着のうれしさに、押て髪結い月代(さかやき)そりたりとてよろこびながら、余程のはれ、面部・手等にみえ、さぞや心細からめとおもいしに、覚えず先立ちしは涙也けり。・・・

天保十一年七月二十七日 晴

 きょう夕方、乗馬いたす。馬場へ、馬のこと引き受ける家来先立ち、刀持其外近習のもの召連れ参る。其がもとの身分をおもえば、恐入りたる事也。
 され共、夫は御役義に付ての事故(ことゆえ)、平日のことと、決て混雑あるべからず。右に付、おもい出候一事を記す。鍬五郎[摘男・彰常(あきつね)]等、よくこころえ候え。
 某、今日書付を出し候は、御用中、倹素専(もっぱら)たるべしと。よって先ず、今日より申して、朝は塩断、ひるは香物か、或は味噌の類一品、夜食何にても一菜、尤も汁ある時は菜は無用たるべし、二度は麦飯たるべし、三度共に飯を焚き候事は相成らず、と申しつけ候。御用のこと、家内等へうつり候わば、たちまち滅亡相違あるまじく候。
 相成るべくは、門より内の事は二百俵のくらし、御役に付ての事は三千石のこころえ、決て忘却あるべからず。某が離島へ参り、右の如くいたす事に、心附きなくてはなるべからず候。
 来年帰りてのち、在勤中の平日の衣服、無用たるべし。衣類、悉(ことごとく)く素木綿の紋付たるべし。少々の失却は苦しからず候。おさと[佐登子・高子]引受け候て、忘却これなく、其手当あるべく候。儒のみちにこころあるものは、僧徒(そうと)はこととして笑うことなれども、実(もこと)の清僧(せいそう)、又は木食(もくじき)など、僧徒にはいくらもあり。任重く、道遠き士たることおもうもの、僧徒位の行をもののかずとすべきや。 

天保十一年八月二日 晴れ候て、東南風強し。

 乗馬いたす。例の通り也。だく(B足(かけあし))に成りてのれずと申せしに、厩中間(うまちゅうげん)の、全く馬場長からぬ故也、と申しぬ。如才(じゅさい)なき奴也。長短に拘らず、いつも野足なるべし。佐州にて乗馬のこと、三年計りこれ無し。鳥居の馬は、山みちに迷いし時、管仲が遣いしと承るほどの馬也。佐州の馬は至て小さくして殊に意地わるし。よって地役人等、馬のことは曾てしらずと。されば、拙技(せつぎ)の仕合(しあわせ)なるべし。絶倒也。馬場は、四十間に少々たらず候。

天保十一年八月三日 晴、風強し

 向陣屋の内、自分入用にて少々つくろい候て、今日より剣術を遣い申し候。鉄蔵[川路家の使用人]・粂蔵相類し候。剣術、かなりの切紙(きりがみ)[初歩の許可書]位也。順之助は一刀流也。かなりの年の稽古みゆ。嘉十郎は免許の由。中絶故、粂蔵などと五分位也。され共、気分高き故、皆々取廻され候。

天保十一年八月四日 晴、風

 宅の書状も、日記に候わば、一覧いたし度く候。心得に相成り候。其外は、いたずらに人意をみだり候具とのみ相成り候間、却て当惑の種相成り候。日記に候わば、記し候て御差越し候えかし。 某心得の程、一ツを記し候。いにしえ、日本・異国にも、山に住み海島に住み、或いは色々に身をかえ、隠れたる人も多かりしにはあらずや。夫等(それら)は世に厭(いと)うこと、又は市中などにはこころをすましかねたる故にあるべく候。某は格別の御騰用(とうよう)故、世事をしばしも捨て候義はいたし申さず候。され共、残念成るは、世事を捨てざるより、又世事に迷うこと常に多く、日々くるしみ候。
 然るに此度、此島根へ参りしかば、命被(めいか)ぶりし御用の外はなく、扨又こころを附け候得ば、十三万石のよきあしきも、某が心一ツより出で候得ば、たとえば、衣類一ツ盗まれたるものありとの訴え承り候ても、矢張某が心一ツの足らざる事より起こり候間、恐入り申さず候ては成り難く、左候得ば日々心の暇は少し。され共一事故、江戸に居たるよりも心迷いは大に減り居れば、若し暇あれば、馬・刀・槍・読書にかかり切り候て、且は山海に隠れしものはいかにとおもえば、在勤少しも難儀とは存ぜず候。
 夫故、公の事に付、某外家事取締に付、心得居り候て、為に成るべき日記の類の外は、成るべくは、聞かずして済むべき事は聞かぬ方と前にも記し遣し候事に候。くれぐれも、宅状の類をいとい候にはこれ無く、御用の妨げと、心を乱り候を恐れ候訳に候。此こと、よく味わい候て、一同勘弁(かんべん)これ有り度く候。遠国の状と申し候もの、中々江戸にて、一寸(ちょっと)に記され候事にはこれ無く、格別の深切より起り候を、かく申し候は甚だ心ぐるしく候。御ゆるし候え。

天保十一年八月九日 晴

 佐渡は、前にもいう如く、至極日傭の下直(げじき)なる所にて、銀山に、弁当はかのかたより持ち参りて、二十八文位の日傭あり。夫がうちにも、山中へ参り、穴へ入り、金銀を掘り候山大工(やまだいく)というものは、一日に四百文も、五百文も取り候由。至て辛苦の事のよし。彼の山大工に成りて、七年の寿(じゅ)を保つものなしと。いずれも同病にて、せきをせき、煤(すす)のごときものを吐きて、終に死ぬるなり。(是は、石州(せきしゅう)[石見銀山]其外の金銀山を聞くに、なべて同じ。油烟(ゆえん)自然に鼻口へ入り、夫より腹中・脳髄迄もいぶりて、骨かるる事なるべしと。実にや)<此短命のことに付、品々(いろいろ)の説ある。正論をしりて、いのちを延べ遣し度きもの也>。
 さて、いかなる病あるものにても、こころを労すること薄く、飲食を節し、薬にこころを用いば、この大工のうらはらにて長寿なるべし。養生は先ず三、四年の労をつみ申さず候ては、効みえがたるべし。長寿のもとは、第一に欲を少なくすることなるべし。

天保十一年八月十日 晴

 夕がたより、鑓をつかい申し候。

天保十一年八月十二日 晴

 此程、朝は馬、畢(おえて)て鑓の素(す)ごき。夫より朝飯(多分五時[七時]過ぎに成る)給べ候後、直に経書の日課に懸り候。四ツ[午前十時]の鐘打ち候と、行水(ぎょうずい)廻り申し候(此鐘にて組頭出席也)。行水にて継上下(つぎかみしも)に着替え候て、御用の書物に懸る。四ツ半[午前十一時]過位、組頭居間へ参る。御用談これ有り、夫々指図いたす。九ツ[正午]の鐘打ち候て、一旦組頭退坐。其内、昼飯給べ候。又々組頭出でられ候。御用談これ有り、八時[午後二時]うち候て、暫く候て組頭退坐。直に四半帳(しはんじょう)の秘書写し懸く。畢て、通鑑よみ申し候。七ツ[午後四時]打ち候て、夜食給べ候。夫より剣術 、槍術に懸り候。はや、薄暮に相成り候(島国故、夕ぐれ迄さし申し候)。又行水候て、燈火にて歌書をよみ、日記を附け、又通鑑をよみ申し候。五半時[午後九時]に、用人より給人迄、悉く機嫌聞きに出る。逢い候て、少々物語いたし、ひま遣わし候。畢て近習・侍共、同断出る。夫より臥せり候。
 日々のこと、凡斯(およそか)くの如き也。少しもひまなし。少しもひる寝と申し候事、例の如くいたし申さず候故、五時[午後八時]過にはねぶり附き申し候。半時までは忍びて起き居り候。尤も、横雲たなびく頃は起き候。髪は結い候得共、月代(さかやき)はいたし兼ね候程のくらさ也。

天保十一年八月十六日 曇、風

 きのうも夕がたより、茂兵衛・民蔵など、鉄砲の稽古専(もっぱら)也。だれか、戯(たわむれ)ごと申しけん、若きもの用心をせよ勤番(きんばん)は親父(おやじ)もよって放つ鉄砲

天保十一年九月二十二日 晴

 五時[午前八時]の供揃いにて、鉄砲見分として参る。四十五人皆中りのものこれ有り、三十匁[一一二.五c]、十五匁もあり、三匁五分[一三.一c]もありき。地役のもの常に心がくるとみえ、取廻しよし。三拾匁うつものに、至て弱年のものもみえし也。そこより十町計り参り、町打場(ちょううちば)[大筒練習場]有り。
 ここは巾五十間計に、長(ながさ)二丁の的場、その脇の高き所に幕うち廻し、鉄砲数十挺ならべあり。その脇に某と組頭の居る幕はりあり。某と組頭は畳のうえにて、一段ひくき薄べりに用人・給人・広間役共罷在り候。ここには、紅、白・黒・黄の旗、白きまといなど立てあり。
 ここにて、三拾目を丁場打(ちょううちば)いたす。的、二町の外なれば、あたりよからず。中りは白旗、はずれは黄旗をふる也。それより、五十人一行(ひとつら)に出、外に三人田付流(たつけりゅう)[田付四郎兵衛宗鉄を祖とする砲術]の仕かけ筒三挺をもち出し、下知によって一行又は二行になり、鶴翼・魚鱗に並び又は斜の一つらに成り、五人宛廻り、備え等いたし、くりかかり、くり引にて三匁五分の早うち連発いたし、其内へ右の仕かけ筒をも打つ也。足なみよろし。車台の百目をも三発いたす。いずれも、手なれみゆる也。畢て、皆中りのもの、其外師たるものを目付のもの召連れ出る。例の通り、御褒美の金子これを下さる。
 佐州の相川は、至って険阻の山左右にありて、西北は大海也。此人あらば、三千、四千のものにても、いず方よりも入るべからずとおもいぬ。異国船参るとも、遠く海をこえて越後路の大名へ加勢を乞うことなど、あるべからずとおもう程也。

天保十一年十月朔[一]日 大風雨

 ・・・何事ものこし置き候故、こころ懸かりに候。こころ懸かりなき程の楽しみはこれ有る間敷く候。倹約は身のつつしみにて、三千石は三千石丈(だけ)の出費、其外のこころえこれ無く候ては、今日の武士の武士たること成り申さず候間、拠(よんどころ)無き費(ついえ)はなき様いたし候ものの、是も能く考え候て、人のものをかり候ていたし申さず候程に、不時の手当ありても、夫にても金子を好み候わば、商人の武士にあるべき。明日をも構い申さず候て、人の懐中を仰ぎて不時の間に合せ候わば、乞人(きつじん)流の武士なるべし。され共、身をつつしみ、倹約のこと心をつくし候ても、貧なるは天に候得ば、よく洗い見候わば、金子のあるを好み候ものよりは、彼の明日のくらしなきもののかた、猶よかるべし。され共、少しも奢(おごり)りたるこころあれば、人を貪(むさ)ぼることは盗人の小なるものに付、人を貪り、かりものなどにて一寸の挨拶・音信などいたし候ものは、眼をとどめてよくみれば、盗人の人にものおくるにも近く、糞汁の衣着て、神拝みする類なるべし。

 ・・・され共、鍬五郎[摘男・彰常(あきつね)]など、此程わが身の煩うべきかと、いとい候類の未熟なることは夢々あるべからず候。三時[六時間]寝候わば、あとは精力のあらんかぎり出精あるべし。
 稽古事は心を労すること少なく候間、いか程出精候ても、病い出ることこれ無く候。稽古事にて病出で候程に候わば目出度(めで)たかるべし。夫にて病い出、死候わば、死候かたよろしかるべく候。されば、大事をかかえ候ものは、養生第一に候。武士ほどいのちをおしく存じ、身を大事にいたし申さず候ては相成らず候。武士は身もいのちも、上より当分御預かり申上げ候ものに付、別して大切にいたし申さず候ては成り難く候。此事、鍬五郎よく御心得候えかし。

天保十一年十月十日 風雨

 今日は武術の一覧也。書院の畳をあげ候得ば、直に稽古場になる也。七間に三間の板間にて、よき稽古場也。くり出しは目付也。某が右の横に組頭、入側(いりがわ)に用人・給人・刀もち着坐也。左次(ひだりつぎ)の間に、広間役一同着坐。鑓は宝蔵院(伊能先生[伊能一雲斎]の門人、高山又蔵[高山貞利・佐渡奉行支配組頭]の弟子共也)、左分利流・無敵流也(是は素鑓同士也)。剣術は無眼流・東軍流・新陰流(中野楽山先生[中野金四郎]などの同流名なれ共、大いに異る也)、居合無敵流、杖術吉岡流、柔術渋川流・心流也。いずれも形一通り畢て、東軍流・新陰流目録・免許のもの、仕合いたす。宝蔵院は入身(いりみ)[素手で向かう]いたす。東軍流・新陰流、いずれも花法[型]也。罷出で候面々へ、強飯(こわめし)・煮しめ等遣わす。いずれも先例也。人数七十弐人あり。五時[午前八時]揃にて、七半時[午後五時]頃まで相懸り候。新陰流に猿飛の太刀あり。武備志にいう所のものに似たり。某が以前皆伝受けし新陰流に、燕飛の太刀あり。似たるがごとし。

天保十一年十一月二日 晴

 昨日、嘉十郎と槍を遣い、組合い候処、槍の上へ互いにころびて、槍折れ候いぬ。よって、ここのかしの柄を取寄せみるに、おさおさ天草[天草かし、肥後国天草特産白樫・槍柄に好適]のごとし。かしは海辺によろしきかもしらず。

天保十一年十一月五日 

 此程、日々の刀槍、怠り申さず候。歌は全くの武門になぐさみものに付、四時過ぎより臥せり候迄と、朝燈のあるうち計といたし置き候。され共、数え候得ば、十月二五日より今暁迄に、百八十首よみ申し候。されば、少しの閑にても捨てられぬもの也。

 鍬五郎の清書一覧いたし度く存じ候。

 此頃は旅なれ候て、月日も早くたち候如く覚え申し候。日々のこと左の如し。

 凡(およそ)かね六ツ[午前六時]位に起き候て、燈のあり候内は歌よみ申し候。燈ひけ候頃、家来より稽古場よろしと申出で候間、直に稽古場へ参り候。槍は突身弐度、いり身弐度、刀術は家来粂蔵・鉄蔵・時太郎・順之助を遣い遣し候。粂蔵ともにきり紙以上、たしかの業に相成り候間、時太郎・順をまぜ候て、おりかえし二度遣い候得ば一息に相成り、汗出で申し候。粂・鉄は一度宛也。夫より直に居間へ帰り候得ば、朝食事也。夫より髪とりあげ、湯など遣い(入湯は六さい[月に六回]位也。手水(ちょうず)計り、日々也)候内に、はや四ツ[午前十時]に成り候間、追々組頭はじめ出で候。地役のもの共へ逢い、組頭に逢い候内、九ツ[正午]過に相成り候。一旦組頭引き候内、食事いたし候。尚又組頭出、御用向申談じ、地役のものにも逢い候得ば、多分七ツ[午後四時]に相成り候。此事果て、のち雨降り申さず候節は、乗馬いたし候。夫より、夜食に相成り候。夜食終わり候て、灸事いたしながら、順之助に左伝よみ遣し候。左伝よみおわり、灸事果て候得ば、たそがれに相成り候。燈迄、鑓のすごきなどいたし候。燈附き候て、五[午後八時]迄経書よみ、家来共暇遣し、枕もとに埋火(うずみび)さし置き候て、四ツ[午後十時]迄歴史よみ申し候。四のかね承り候後は、ひまに相成り候間、歌をよみ申し候。大かた十首計よみ候得ば、九ツ[午前零時]に相成り候。十首よみ得かね候ら得ば、暁に相成りよみ申し候。薬は毎日、 [オケラの老根]・附子(ふし)[鳥頭(とりかぶと)の子根]一ぷく、四日目に柴胡(さいこ)[ミシマサイコを主とする薬方]・承気(じょうき)[大黄を主とする薬方]の内一ぷく給べ申し候。此程、至て健かに御座候。近頃覚え申さず候位に御座候。以上の次第、当時の日なみに御座候。しるし、御安慮のため奉り候。食事は例の通り、朝しお断(たち)、ひる飯は香物かみその類、よるは一菜(此一菜を四日、五日目にしるにかえ候)、間に菓子等給べ申さず候間、飯は小茶碗にて五はい位に御座候。

天保十一年十二月十三日 風雪

 昨夜より寒殊甚だし。手拭も手水鉢もなべて氷らぬものとてはなし。二十六度強半迄に寒く相成る。甚寒より八度尚寒し。用人共の部屋は硯氷るというが、某が居間はすずりこおらず。あさも昼も夜も同じさむさ也。是、寒国の故なるべし。けさ、鑓遣いしに、鎌鑓三度、素やり突身弐度、六半時[午前七時]過ぎより五[午前八時]過まで遣いて、 に汗にじむ位也。

天保十一年十二月十四日 風雪

 寒、甚し。氷らぬものは某が居間の硯のみ也。手拭など板の如くに成る。

 きょう朝、剣術を遣いて、向う陣屋より帰る時みしに、家来共みな素あしにて雪をふみ、勿論稽古着一ツ也。全くに某は衣類着替えけれ共、稽古場は奉行内玄関の向いなれば也。中々に、こたつのこころにては成りがたき也。

天保十二丑年正月九日 風雪

 今日はよほど暖也とて寒暖昇降[寒暖計]をみしに三十一度にて甚寒より尚さむし。はじめ、寒気もしよも甚寒よりはこさじといいし頃は、甚寒のしるにきし日はさむしといいて、みなかこちける也。然るに二十二度迄いたりたることありて、いつしかあられぬさむさにもなれて、三十一度もあたたか也というごとくにはなりてけり。されば、身はなれぬればいかようにも凌がるるものなれば、鍬五郎など構えてわれはかくもせり、この上はならぬとおもうべからざる也。いつも足らぬこころにて、身は窮屈におくべきことぞかし。二十二度の寒になれて、三十一度をもゆるみたるとおもうにて、平日のこと、いか様にもなること也。既に近き証あり。炬たつというもの用いし時は、一日こたつなき時はこころぐるしかりしが、某、久しきおもいにて去年よりやめて、きょうに成りみるに、なきぞひまあきてよき也。こたつのことは更に忘れたり。
 某が酒やめしも是又同し。さればくるしきは十日あまりのことなれば、よからぬとおもいし仕くせはこころ附く日こそ良辰(りょうしん)なり。其時よりやむべきことぞかし。  あさ夕にはは木[箒]もちて、きたなしとて塵はらううちは、外目よりは玉のごとくにみゆる也。おのが宿にははは木はあれど、なきがごとくこころせぬ宿は、足もいれられぬごとく外よりはおもう也。
 人も日々に身の掃除にこころつくすべきこと也。其つくしかた、前の論とおなじことにて、財このめるものの、今果てぬるに一銭をいとうがごとく、つむべき事にや。

天保十二年正月二十三日 風雪

 ここの例にてきょう白洲はじめなり。第一に、九十歳以上の者へ御手当、九十五歳以上のものへ御扶持これを下さる。申渡、以上六人あり。次に、孝行・奇特のものへの御褒美也。是も三人あり。

天保十二年閏正月二日 微雪、風、あられ

 ・・・てんの居るならば皮のほしきもの也と(貂鼠(てん)の皮至てあたたかにて、さて又筆によし。朝鮮の筆多く貂毛也)いいしに、俗間にててんとは申せども、いまだ年古りたるにはあらず、かくかくの毛色也という。申す様、よく並のいたちの如くに聞ゆれば、尚尋ねしに、家に辺におりおり出て、鶏・雀などとるという。されば常のいたち也けり。獣と聞きしに貂とこころえ、いたちの話にいたりぬ。おかしきこと也。
 このものに聞きたらんには、鳥はといいなば、はえというもの数羽出て、夏は飯などとりくらうというべし。某、ここのものは末々迄も、例を尋ねし上逢い遣わせしに、なかには前後を失い、けしからぬ答(いらえ)せしもあり。又、耳ふたがりたるがごとくにて、何やらんしらずなどいうものあるよし。某が前にても、なれぬものはかくの如し。人の上たるもの、下のものよりこと聞かんには、いかにも色を柔らげて、ものいいよくして聞くべきこと也。

天保十二年閏正月二十三日 朝晴、夕がた春雨

 きょう、御宮ならびに大山祇に八幡へ、年頭の拝礼として罷出ず。夫より孔廟へ参り拝礼いたし、同所武芸所へも参りみしに、孔廟は十七史、其外書物、稽古所に しくつみ重ね立て候。役人三人・教授・目付・句読師(くとうし)等あり、十才より十六、七なるも多く参り居り、四書其外をよみ、夫より手習いし、畢りて大人は武芸所へ参る也。武芸所八間計あるべし、立派なること也。六、七人にて素やり・鎌鑓の勝負ありき。夫より組頭宅へ参る。組頭麻上下にて出迎いたし、奥へ通り、家内のもの共迄へも逢い候事例也。即日、組頭はまた、某が宅へ礼に参る也。是も例也。新十郎[組頭山本新十郎]の御役宅は市中にあり。きょう、某が出門より右の往来、途中見物山の如し。愚にも又けしからず候。子供あとより附き歩(あるき)行、牽馬をみて興じ、声をあげてほむる也。笑うべきのいたり也。・・・

天保十二年三月十一日 晴

 口にあい候もの給べ候えとの御事、有難く候。此ほどは巡村故、自然と朝夕は一汁一菜に相成り候。尤もひるは弁当に梅干二ツに焼飯と定申し候。夫をこり[梱]へいれ候て持たせ候。尤も家来の弁当は菜の物もを持たせ候。これほどにいたし くと、酒又は銭など内々中間にねだらせぬ様にいたし候義出来候。村々にて入用大に減じたりとの義喜び候て内々家来へ申しで候。給物悪(あしく)しくいたせば、仇などせし下(しも)ざまのものも、むかしはありしよし也。
 きのうの泊まりにて内々、村方のものの朝夕の給物、上・中・下と出させみしに、上と申し候はあらめ[荒布]と草の根と二分に、米壱分程を加えたる也。中と申すは名もしられぬもぐさ[藻草]共に、少々米まぜたる也。下と申すはそばがらとひえの粉のうちへ、よくみればまことに名ばかりほどの米を交ぜたる也。<上、あらめめし。中、いごめし。下、めかすめし。右方言なり>。はなしの種とおもい、豆ほど給べみしに、もぐさ加えしはのんどを下りしが、ひえの方は舌の上にのせたるまま、少しものんどにくだらず。かかるもの給べ候百姓の割合にて、食ごのみ出来申すべき哉。これをみても れとおもわざるは、人間とはいうべからざる也。
 凡御家人等、着もし給べもするものは、みなかかるものよりあつめたるあぶら絞りて、御年貢となせし也。しかるを一文たりともむだに遣い、よき衣類、よき食物にこころひかれて、何くれと夫而(のみ)巳にかかり居るは、上の御恩もしらず、百姓の歡をもしらぬと申すもの也。鍬五郎など、わかきもの故、よく御了簡候らえ。

天保十二年三月二十一日 晴

 西蓮寺に東照宮の御書あり。かかり湯いたし、今朝拝見いたす。伝来さだかならず。其外拝領の茶器を出す。よろしくみゆれ共、相分からず候。伝来さだかならず候。本間家上杉に滅ぼされし頃[天正十七年(一五八九)上杉景勝の佐渡国平定]より持伝えの小わきざし出す。素あかがね・なな子のふち作風の武者目貫にてさめもよろし。至ってふるし。細川流の拵(こしらえ)[肥後拵]に至て類す。細(すくは) 理にて、三すみ成る菖蒲作(しょうぶづくり)也。大和物のごとし。いずれの作と聞きしに、銘はしらず、中心くさり居ると承るという。中心を抜かせ見しに、正真<金房正真なるべし>という銘あり、至てよろしき中心也。つくしぼうのごときものにて、全くの短刀也。疑無きものなり。

天保十二年三月二十二日 晴

・・・鷲崎にて百姓の飯をみて辛苦に驚き、笠とり・はしり等の難所風雨にて歩行し、弐尺三寸の新刀、はば・かさね相応なるに短刀をさし、山坂十里に近く歩行し、ことの外くたびれ候。右の体にては、都にて弐里・三里のみちこそ三尺以上の大刀も役に立ち申すべく候得共、陣中の心懸には弐尺壱寸前後の刀なるべきか。鑓もちはあれ共、刀もちと申し候こと陣中にはあるまじき 。野太刀遣いたらんとも、鑓の用は如何これ有るべきか。平日竹刀の長短も、しないうちに長ぜず。ことを欲せず、非常武篇の心懸けあらば、あまりに長きは如何あるべしか。一日にてくたびれたり。二日、三日のこと、まして一月、二月のおもうべき也。しないうちの論にて、只に勝負のみを争うは武というべき 。され共、勝負を争うこともしらず、理と話とに長じたるは、明儒のいう野狐禅(やこぜん)に近きものなるべし。
 お役所へかえりみしに、半開きたる桜はさら也、いまだ開かざりし花も梢みどり成る夏こだちと成りておもかわりしたり。池の葦など、驚くばかり延びたり。日月のしばしの間にうつり行くこと、あとみゆるものを以てみれば、かくのごとし。ことを成さんとこころあるもの、いか様にも月日をおしむべきこと也。
 われ、既に四十一歳に成れり。先祖の積善と、上の御恵の深きによりて、かくは仰付けられたれど、ひまの時くりかえしおもうに、一つとこれと出来たることなし。希古のとしの七十迄春秋をふるとも、今迄のごとくならんには、何事の御為かならんや。只利欲につかわれて、老朽ちなんとおもえば、口惜しきこと也。何卒今日より尚いましむべしと、只今よりおもう也。
 鍬五郎など青年もの故、こころして出精あるべし。名身とともにくちて、上の御為等出来ぬ時は、山野の禽獣よりは遥かにおとれり。われいかにしても、此禽獣たらんことをまぬがれんとおもう也。
 世に愚成るものを、あの田舎もの、百姓などという也。され共こころなき時は、其百姓に大におとりたる也。春秋冬夏、朝夕に農事にかかり、上へ御年貢を奉るは、一分(いちぶん)ンの出来たるというもの也。此のほども、うちかえす田の泥にて、百姓は泥もてつくりたるがごとくなり居る也。夫にはおいたる婆々も、わかき女も、うちたれがみのおさな子もある也。
 かく公儀のことにかかりきりにいたし居ると、武家の当番等に主人のみ出るとは大に違う也。せめては鍬五郎なども、はやくわれ等がくるしむ所の山野の禽獣の場をまぬがれて、よにいやしめらるる百姓ほどの、上へ対し一分ンをつくす武士たるべきこころがけあるべし。士たるものの農夫に及ばざること、日々に忘るべからざる様心がくべき也。

天保十二年四月十六日 雨、雷

 ・・・とあり。添書の趣偽物(ぎぶつ)にあらざれば、椀の日蓮が椀か否やはしらねども、いい伝えしも古きことにて、其の古きこというべくもあらぬ也。此椀の 末なるをみて。塚原の牛馬を捨てたる所にある一間四面の三昧堂に居ながらも、心を動かさず法華をときたることおもうべきこと也。今のものは法華を信ずるとはいいながら、欲深くして、とかくよき衣類、うまき物をこのみ、はつかのことにはら立ち、或は孫や子のためにあらねぬよくをなし、みるものきくものにこころうごきて、地獄に生きながらおちてこころをくるしめ、又は少しも我慢のならぬより、うそまでいいて人をわるくいうなど、みな五欲の悪よりいずる也。法華経に偽せなからぬには、日蓮が必ず手伝いて、地獄へかかるもの共を投げ給うなるべし。つつしむべきこと也。木像は木のきれ、経文はくろくすみのかたをおしたる紙也。夫をよみおがみて、成仏せんとおもうはおろか成る事也。それよりも、半時にてもよろしく、悪心なく、欲を薄くすべき事也。

天保十二年四月十七日 雨

 五時[午前八時]頃より、山の神なる教寿院の御宮へ拝礼として罷越す。きのう七[午後四時]より、こころよりの御清(おきよめ)を成して詣でける也。至て六カ敷出来損じたり。され共、きょうの拝礼ある故にや、久しく妄念に流されはせず、有り難きこと也。畢て孔廟へ参る。拝礼畢て、学問所引受田中従太郎其外定役・並役にものとしばし申談事し、例の通り稽古所へ参る。ここは地役人の子供等が手習 に読書する所也。二、三十人居たり。よく精を出せ、おとなしくして孝行せよ、と辞(ことば)懸遣し候。いずれも平伏して居し也。夫より武芸の稽古所へ常は参るなれど、きょうは早く、いまだはじまらぬ故に参らぬ也。某、聖像を拝すれば、必ず地役人の子供に逢いて辞遣す也。是は往々(ゆくゆく)は佐渡の要(かなめ)たる、御用立つ人もあれかしとおもえば也。奉行故に子供を拝しはせねど、拝するもおなじこころにて必ず辞を遣す也。是は則ち、御奉公と一ツなるべし。

天保十二年四月二十八日 曇、微雨

 重ネテ佐州脩教館ヲ建ツルノ記 [本文省略]

天保十二年五月八日 曇

 払暁の出立にて、出懸け六郎左衛門玄関迄相届けかえる。当番のもの、 に六郎左衛門用人、御門内にて暇乞いたす。夫より、下(おり)戸口其外遠きは沢根の湊迄おくり来る。七時[午後四時]頃に小木の湊に到着いたす。山方役に蔵田太中[蔵田茂樹]というものあり。佐州にての歌よみ也。巳前淳介へ、墨田川すむらん月におもい出よわがたもとにもやどるものとは、という送別の歌よみし男也。我、人より物受ることとてはなし。されど歌贈るほどのことはあらかじといいしに、五月のはじめ大江戸へかえらせ給うをおくり奉るとて、という辞書(ことばがき)にて、たち花のかぐわしき名をなごりにてほどは雲井に行くほととぎす、とよみておくりし也。太中が実名(じつみょう)は茂樹と申せし。
   きょう御役所立出るとて、
一とせをうしと過せし島ねじも なれてはぬるるわかれ路の袖 わかれじのおしあけがたの露ぞおく いさむ帰りの都ながらも

おり戸口という御番所にて、島の役人共わかれを告げければ、
 おりおりはおりとの関の隔てなく ことの葉よせよ佐どの島人
(以下略)  



凡 例
一 本書は、川田貞夫著「島根のすさみ」平凡社を原本とし、編集者により武道・ 修行・思想に関する部分のみを抜粋・転記した。
二 原本、川田貞夫著「島根のすさみ」平凡社は、宮内庁書陵部架蔵の川路三左衛 門聖謨自筆原本「島根のすさみ」を底本としている。
三 原本は、読解の便を考慮し、底本を若干変更してあり、本書もそれにほぼ準じ た。其の主要な点は次の通りである。
 イ 底本の割り注部分は、(  )とした。
 ロ 底本の頭書は、<  >とした。
 ハ 古体・変体・略体のかな・合字等は、現行の字体に改め、また、特例を除い  て、カタカナはひらがなに統一した。
 ニ かな遣いは、現代かな遣いに改めた。
 ホ 送りがなは原則として底本のままとしたが、そのために難読・誤読のおそれ  がある場合はこれを補った。
 ヘ 全文に濁点・半濁点を施した。
 ト 漢字は新漢字を用いた。
 チ 読みにくい・読み誤りやすい語句にはふりがなを付けた。ただし、底本のふ  りがなにはカタカナを用いて区別した。
 リ 必要に応じてその補正・説明を[  ]内に明示した。すべて[  ]内の文字  は、川田貞夫氏の校注を転記した。
  ヌ ・・・は、中略・後略したことを示す。


2003/02/09