宝蔵院流槍術

随筆 宝蔵院流槍術
  宝蔵院流高田派槍術 第二十一世宗家 一箭順三

3 宝蔵院流槍術 (三)
    季刊:興福第185号(令和元年 9月 1日 興福寺発行)
    全4回の掲載予定
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 発見された流祖・胤栄師尊像

 宝蔵院は興福寺の子院で現在の国立奈良博物館構内に位置し、創流以来明治初年まで三百有余年にわたって槍術稽古がなされていました。
 しかし明治初年、廃仏毀釈の嵐に遭遇し道場は取り壊され、昭和五十一年に流儀が奈良に里帰りするまで奈良で稽古されることはありませんでした。
 この流儀の奈良への里帰りには不思議な霊の導きがあったのです。昭和三十三年、先代・鍵田忠兵衛宗家の父君・忠三郎先生が白毫寺墓地に宝蔵院覚禅房胤栄師一門の墓地を発見したのがご縁のはじまりでした。以来、先生はお墓を守り大切にお祀りしておられました。ある夜、夢に紫の衣を着た僧が現れ、さらにその日の墓参で再びその僧が眼前に現れたため、この僧こそが宝蔵院胤栄師であると確信したのでした。先生は胤栄師が何らかの使命を私に託されたと常々申され、私もそれを聞いておりました。
 その後奈良市長に転進された先生は、奈良市中央武道場の建設に着手されました。当時の自治体では最大規模であった建設中の道場を、全日本剣道連盟会長(元最高裁判所長官)石田和外先生が視察に見えました。鍵田市長の槍の稽古も出来る広い道場との説明に関心を示された石田先生は、市長の案内で宝蔵院胤栄師墓前に詣でられました。そして般若心経を捧げ終わった時「実は宝蔵院流高田派の型を少々嗜んでおります」と謙虚に申されたのです。石田先生こそが宝蔵院流槍術の継承者であったのです。驚いた鍵田先生は、奈良市中央武道場の竣工式においての模範演武をお願いし、昭和四十九年九月、石田和外先生によって宝蔵院流槍術の型を披露されたのでした。私もこれを拝見し感激しましたが、鍵田市長はあまりに立派な槍の演武に感銘を受け、是非この槍を里帰りさせ奈良に伝えてほしいと懇願してくださったのです。石田先生は快諾頂き、槍術指導のために東京に剣士を受け入れ、その後も度々先生にご来県頂き、熱心にご指導下さいました。お陰で昭和五十一年、宝蔵院流高田派槍術第十八世石田和外先生より、剣道範士八段西川源内先生への伝授式が挙行されました。これによって宝蔵院流槍術が百年ぶりに発祥地奈良に蘇り、現在においても槍術稽古を続けることが出来ています。これこそが流祖胤栄師が鍵田忠三郎先生に託された霊の導きであったのです。 

四世胤風師揮毫山門部材発見
宝蔵院流槍術四世胤風(いんぷう)師揮毫の宝蔵院山門部材が平成28年西光寺(奈良市石木町・鳥見浩憲住職)で発見されました。
 宝蔵院山門は明治初年に西光寺へ移築されました。惜しくも50数年前、老朽化により建て替えられたものの、当初の宝蔵院山門の棟木(むなぎ)を受ける部材「実肘木(さねひじき)」が須弥壇(しゅみだん)の奥から発見されたのです。
 この実肘木には墨痕鮮やかに「享保元年丙申年九月廿八日新造立之 鎌宝蔵院鎌術 四代 覚山胤風(花押)」と揮毫されていました。これによって宝蔵院山門は、1716年、四世胤風(31歳)建立が確認されたのです。実に建立三百年の節目の年の発見となりました。

流祖胤栄師尊像及び歴代院主位牌発見
 宝蔵院では江戸時代を通じて院内に歴代院主の位牌が祀られていました。しかし、明治初期の宝蔵院撤去とともに歴代院主の御位牌も行方不明となりました。
 流儀が発祥の地奈良に里帰りして以降、代々の宗家及び伝習者達は宝蔵院一門墓所(奈良市白毫寺町)にて、墓参・墓所整備を欠かさずにお祀りを継続してまいりました。
 そのようななか平成28年、興善寺(奈良市十輪院畑町・森田康友住職)において偶然歴代上人位牌処から宝蔵院院主(二代〜五代)の位牌が、続いてご縁を辿って七代胤賀(いんが)の玄孫・山田正一邸(大阪府箕面市)において流祖・胤栄師の位牌及び尊像までもが発見されたのです。このように相次ぐ宝蔵院流槍術の発見は歴代院主霊のお導きに他ありません。今後とも稽古精進はもとより、先師の顕彰・お祀りを大切に継続してまいりたいと考えております。








2019. 9.12