60年ぶり、発祥の地に
宝蔵院流、再興

「敗けた。おれは敗けた」と武蔵につぶやかせた伝統の槍術

夕刊フジ  昭和51(1976)年3月12日掲載

資料提供:宝蔵院流高田派槍術 粕井隆 免許皆伝


 宮本武蔵との対決など剣豪示小説でおなじみ、鎌槍(十文字槍)の宝蔵院流槍術が、60余年ぶりに、発祥の地の奈良に復活した。
 明治末期に滅びたといわれていたが、元最高裁長官の石田和外(いしだ・かずと)さん(72)が、いまも伝えていることがわかり、奈良から”剣士”4人を神奈川県・鎌倉の石田さんのもとへ派遣して手ほどきを受け2月から奈良市内の道場で、宝蔵院流槍術の道場びらきとなったしだい。


奈良・鴻の池 道場
中興の祖は石田和外最高裁長官
一高時代から受けつぐ

鉄筋コンクリートづくりながら、どこか古風な趣がある鴻の池道場
 昔の宝蔵院は興福寺の塔頭(たっちゅう)の一つとして同寺の境内にあったが、新しい道場は奈良市北郊の同市中央武道場、またの名を鴻の池道場と呼ぶ。武道好きで、自分も四つの剣道場を経営する鍵田忠三郎市長が先頭に立ち、49年9月に工費2億7千万円をかけてつくったデラックスな道場である。
 そして、同道場の剣道指南役の西川源内八段(59)ら4人が、宝蔵院流の表、裏各14本、新仕掛7本、計35本のうち、とりあえず表14本だけを石田さんからこのほど伝授され、2月中旬、「宝蔵院流槍術教室」を開いた。

第一期の門弟”19人”
荒修業でフラフラ

3キロ近いカシのけい古槍は、両手で支えるだけでも大仕事。
うっかりすると腰がふらついて・・・(鴻の池道場で)
 第一期の門弟”19人”。毎週土曜日の午後、1時間ずつ3ヵ月間のけいこで素槍(ふつうの槍)と宝蔵院流の特徴である鎌槍とで、チョウチョウハッシとやり合うわけである。
 「突くという基本技のほか、鎌槍の穂先で相手の槍や刀を引っかけたり、ねじったりするなど応用範囲が広いのが特徴です」(西川八段)というカシの木をくり抜いたけいこ用の槍は素槍が3.6メートル、鎌槍2.7メートルで、重さは3キロ近くもあるシロモノ。全員、初心者の悲しさ、「応用の広さ」どころか、槍をにぎったとたん重心のバランスがとれず、へっぴり腰。わざわざ名古屋市内から新幹線で通っている会社社長、片山俊男さん(58)は「若いころ、剣道をやったことがあるんですが、槍は勝手が違って・・・・・。初日のけいこがあった翌日は筋肉痛で熱が出て起き上がれなかったですわ」というから、かなりのハードワーク。
 入門者は、会社社長、サラリーマン、大学生・・・などさまざまで、地元奈良をはじめ、大阪、京都、遠くは片山さんのように名古屋からも。
 最年長の元小学校校長、小林冨夫さん(61)は現在剣道六段だが「自宅は柳生の近くだし、加えて宝蔵院院流の槍まで習えるとは、武道みょうりに尽きます」と感動のテイ。しかし最年少の関西大法学部3年、扇谷秀樹(21)などは「高校時代から槍を習いたいと思っていたら、たまたま道場が開かれたので・・・。宝蔵院流の由来は百科事典で調べてわかりました」。

砲術に押され消えて行った江戸時代

放送中のテレビドラマ「宮本武蔵」(フジ=関西テレビ系)の宝蔵院流での決闘シーン。
「武蔵(市川海老蔵)は高弟の阿厳を一撃で倒した・・・」

 《宝蔵院流》
 南都・興福寺宝蔵院の院主、覚禅房胤栄(1521-1607)が諸国で修業して創始した槍術。のち胤栄は柳生但馬守宗厳(石舟斎)とともに剣聖、上泉伊勢守秀綱に刀法も学んだ。独特の鎌槍は興福寺そばの猿沢の池に映る三日月を突こうとしてその影から編み出したといわれる。
 「敗けた。おれは敗れた」暗い杉林の中の小道を、武蔵はこう独り呟きながら帰って行く・・・。「形では勝ったが負けている証拠ではないか・・・」・・・宝蔵院の灯は、まだ後に見えていた。(吉川英治「宮本武蔵」より)
 宝蔵院流は槍術の代名詞として、江戸時代、一世を風びしたが、鉄砲の普及で槍術そのものがだんだんすたれていった。
 宝蔵院の道場も明治末期に廃絶し、いまは井戸跡が残っているだけ。


奈良・鴻の池道場の落成式で、宝蔵院流の槍術を披露する石田・元最高裁長官(左)=49年9月28日うつす
 石田さんがこの宝蔵院流を習ったのは大正9年、旧制一高へ入学してからのことだそうだ。
 「東大剣道部師範の山里忠徳という先生が宝蔵院流高田派を伝えているというので、一高の有志たちが後世に残すべきだといって、大止7年から習いはじめたんです。昭和16年ごろまで続けられたそうですが、修得した人たちのその後の消息がわからなくて・・・」と石田さん。
 その石田さんが、49年春、全日本剣道連盟会長として、完成間近い鴻の池道場の下見に奈良を訪れたのが、奈良に宝蔵院流が復活するきっかけとなった。
 鍵田市長の案内で覚禅房胤栄(宝蔵院流の創始言)の墓に参った石田さんが「実は、宝蔵院の槍を少々たしなんでいるので、道場落成式のとき、もしよければ型を披露しましょう」といった。
 「石田先生が宝蔵院流の大家だったとはそのときまで知らなかったんですわ。墓へ案内したのはまったくの偶然なんです。いや、驚きました。宝蔵院流はてっきり滅んだと思っていましたからねえ」と鍵田市長。
 その秋の落成式には、約束通り石田さんが宝蔵院流の槍を、また奈良県出身で、剣道連盟名誉会長の木村篤太郎・元法相(90)が居合抜きの型を披露した。柳生の小林さんも「あのとき石田先生の槍を見て、感動のあまり入門したんです」という。



鍵田奈良市長

力コブ入れる奈良市長

神がかり的出会い説く

昔のままの四百畳
「武道館よりこちらのほうが上じゃ」

゛宝蔵院ぱり”の荒げい古で門弟をしごく西川源内指南役。
右手に持っているのが、けい古の鎌槍

(右:鈴木眞男先生)

 
 鍵田市長は「これも因縁というか、胤栄の霊が私に石田先生を引き合わせてくれたんですわ。10年前、夢枕に紫色のけい古着をつけた胤栄が現れ、道場に大の字に寝ていた私に向かって鋭い気合をかけよった。一瞬からだがしぴれたが、私も負けずに気合をかけ返したとたん眼が覚めた。あとで、胤栄が宝蔵院流をぜひ私の手で復興させてくれ、と頼んだのやと思いましたね」といざさか神がかり的な話だ鍵田市長、いたって大マジメ。鴻の池道場を着エするときには、まだ宝蔵院流そのものの復活は未定だったが、道場の広さは昔の宝蔵院の道場と同じ四百畳分(634平方メートル)床板をドンと踏み鳴らすと、道場いっぱいに音が反響するように、床下に壷をいくつか埋め込むなどのコリようで「東京の武道館よりこちらの方が上じゃ」(鍵田市長)とご自慢。
 NHKドラマ「春の坂道」で有名になった剣の柳生流も、すでに故地の柳生の里に正木坂道場を復興しており、いまや古耶・奈良は、なにやら剣豪小説や講談の舞台のごとき趣である。


「宝蔵院流槍術、再興」夕刊フジ 掲載 (S51(1976).3.12)
奈良市民だより「宝蔵院流槍術 奈良へ帰る」掲載 (S51(1976).7.15)
NHKテレビ「近畿の話題 奈良」よみがえった宝蔵院流の槍 (S52(1977).1.23)
発祥の奈良の地に蘇えった宝蔵院流十文字鎌槍のいきさつ (S53(1978).7)
宝蔵院流槍術 奈良への里帰り (H21(2009).9)
石田和外先生 ご愛用稽古槍 受贈 (H21(2009).11.25)
宝蔵院流高田派槍術 第十八世宗家 石田和外先生ご愛用稽古槍の受贈 (H22(2010).5)

2012. 5. 6